永らくお待たせいたしました。

ここからは今年2月末に投稿した記事、その中で執筆を予告した『察する』の話になります。


このときの自分・・・「困ったな」という顔をしていました。

しかし、どんな顔をしていようと。

「この人の感情は『ジェラシー』である」 そういう先入観・思い込みを持っていたであろう、あなたからしたら。

単に「それ(ジェラシー)を指摘され、惨めな気分になっている人の顔」ぐらいにしか、見えなかったことでしょう。


けれども。

もしかしたら『察する』のではないか。

ワタシの顔色を見て、何かに気付くのではないか?

このときワタシの脳裏に、そういう考えがよぎったのです。


もちろん、たとえ『察する』にしても・・・今まで散々書いてきたエピソードの数々。

ワタシがリハ室に呼び出された話とか。

ハゲがデイケアのことをどう言ってたかとか。その他もろもろ。

それらのこと全てを、ワタシの表情ひとつで読み取ることなど、流石に不可能。

それはわかっています。

しかし、そこまで『察する』というか『達する』ことが出来なくとも、

「なんか様子や雰囲気・・・変だな?おかしいな?

もしかしたら・・・違うんじゃないか? 

自分が知らない、もしくは気付けていないだけで

何か違う事情とか理由、あるんじゃないかな?」

ぐらいまでは、辿り着くのではないか? それぐらいまでは、読み取れるのではないか? と。

・・・結果は既に出ております。あなたはそこまで到達すること、出来ませんでした。


「いや、そんなん・・・雰囲気や表情でわかれ、とか無理!!

そもそもなんで言わなかったの? 

そのとき何でもかんでも全部、洗いざらい話せばよかったじゃない!!」

ワタシがあなたの立場だったら、こう反論したくなると思います。

しかしワタシはあなたではないですから。ワタシはワタシの立場で、話を進めさせていただきます。


確かにこのとき、全てを話していれば。

その後の展開は、大きく変わっていたかもしれません。

しかしこのときこの時点で。

ワタシがあなたに、あなたの知らない事実を話してしまう、なんてこと。

これは絶対になかったんです。


この記事の中で、ワタシは

「(あなたが)察するのではないか?」

と書いてはおりますが

「察してくれるのではないか?」 

とは、ひと言も書いておりません。

このふたつの言葉の違い。わかりますでしょうか?


「察するのではないか」 は、そのままの意味です。

ただ単に「あなたが察するのではないか?」ということです。

それに対し、

「察してくれるのではないか」 は、言葉の中に「察してほしい」という願望がこめられています。

つまり「察してくれる~」であれば、あなたが『察する』のをワタシが期待している、ということになるんです。


けれども前述したように。「察してくれるのではないか」という言葉。

今回の記事では使っておりません。なぜだかわかりますか?

その言葉が、このときのワタシの気持ちを表現するのに適してないからです。


なんか回りくどいことばっかり言っててスミマセン。要するに、どういうことかと言うと・・・


このときワタシは

「察してほしかった」ワケではないのです。

むしろ「察してもらいたくない」という気持ちが強かったのです。

あなたが『察する』こと。そして全てを知ること。

ワタシはそれを望んでいなかった、ということなんです。